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大切な人を救うために、あなたは法を破れるか?
突然だけど、こんな問いを考えてみてほしいです。
「大切な人を守るために法を破らなければならない状況になったとき、あなたはどうしますか?」
社会学者の宮台真司氏は、2013年頃に中学生を対象にこの問いを実際に調査しました。結果は衝撃的で、なんと約8割の中学生が「法を破れないので助けられなくても仕方がない」と回答したそうです。
この結果を受けて宮台氏は、初めて「クズ」という言葉を使います。「今の中学生の8割はクズ」——これは一見、子どもたちへの侮辱のように聞こえるかもしれないです。でも宮台が言いたいのはそういうことではなくて、「彼らが悪いのではなく、育ちが悪い」ということです。
「倫理的な存在」とは何か?
宮台氏の思想の根底には、2007年の著書『14歳からの社会学』から一貫しているテーマがあります。
「人を幸せにすることによって自分が幸せになる。そういう決意をしている存在こそが、倫理的な存在だ。」
この定義に従えば、「人を幸せにするためなら法を破る」という判断は、むしろ倫理的な行為になりえます。イエス・キリストを例に出しているのも興味深いところで、神殿の両替商を追い払い、安息日の規律を破ったイエスは、ユダヤ法の観点から見れば明らかな犯罪者でした。それでも彼が後世に「倫理の象徴」として語られるのは、より大きな人間的価値のために行動したからにほかならない。
問題は、現代の子どもたちがそうした価値判断を育む環境にいないことです。ルールを守ることそのものが目的化され、「なぜそのルールが存在するのか」「どんな価値を守るためのルールなのか」という問いが失われてしまっています。
敵を尊敬することが、正しい判断につながる
もう一つ、宮台氏の話で印象的なのが「敵対する存在をリスペクトする」という視点です。
たとえば、ある元モサド(イスラエルの諜報機関)の長官は、ハマスの創設者を「心の底から尊敬している」と語っていたそうです。パレスチナ人の人権と生活を守るために、イスラエルを排除するしか手段がないと信じて行動した——その内的論理を、敵対する立場でありながら深く理解していたということです。
同じ構図が日本にもあって、北九州の工藤会をめぐる取材でも、元刑事や公安関係者が組織のかつての幹部・水下を「非常に尊敬している」と語る場面があったといいます。20以上の組が殺し合いを繰り広げる中で、たった一人でまとめ上げたカリスマ性——そこには確かな「内的論理」があったということです。
宮台氏はこう言っています。
「自分が判断を間違えないために、敵対している人間が持つ内的な論理を捉える努力をしないといけない。最後まで完全に理解できなくても、ギリギリまでその努力をしないと、自分の判断がズレていく。」
これは、政治でも、ビジネスでも、人間関係でも通じる話だと思うです。相手を「悪」として切り捨てた瞬間に、思考は止まってしまいます。
社会が劣化するとき、何が失われるのか?
宮台氏はグリコ・森永事件の犯人についての持論も展開していて、犯行の精緻さと情報漏れのなさから「英雄的統治ができる人物が中心にいた」と分析しています。犯罪であることは当然批判されるべきですが、それとは別に、30人規模の組織を完全にまとめ上げる統率力の異常さが、ある種の人間的な凄みを感じさせるということです。
そして、こうした「人を束ねる力」「共同体的な義理人情」は、かつての被差別部落やヤクザの世界に色濃く残っていた文化でもあったと言います。社会が均質化・合理化されていく中で、そういった濃密な人間関係や「仁侠」的な倫理観が失われ、代わりに「法律さえ守っていれば正しい」という薄い価値観が広まってきたということです。
「助けられないのは仕方がない」と言える社会で、私たちはどこへ向かうのか
「大切な人を助けるために法を破れるか」——この問いに8割がNOと答える社会は、安全で秩序ある社会に見えて、実はとても脆いものを抱えているのかもしれないです。
誰かが本当に困ったとき、リスクを取ってでも手を差し伸べる人間がどれだけいるか。それが社会の底力を決めるのだと、宮台氏は問い続けています。
「クズ」という言葉は挑発ではなくて、今の教育と社会設計への深刻な警告だと受け取るべきだと思います。











