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まずは「知る事」から始まる

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辺野古沖で起きた抗議船の転覆事故から、もう1ヶ月以上が経ちます。

修学旅行中の高校生が命を落とした、あの事故のことです。

先日、その船を運航していた団体の共同代表が、琉球新報主催のイベントで講演を行いました。その内容と雰囲気が、SNSを中心に大きな波紋を広げています。


「海は荒れていなかった」という主張の違和感

講演の中で代表が繰り返したのは、「当日の海は穏やかだった」「波浪注意報は沖縄の冬には日常的なもの」という主張でした。

メディアが「荒天の中の無謀な出航」という図式を作り上げた、とも訴えていたようです。

でも、ちょっと待ってほしいんです。

船は、実際に転覆しているんです。

「海が穏やかだった」という主張と、「船が転覆して人が死んだ」という事実は、同時に成立するものなのでしょうか。穏やかな海だったとしても、それが「安全な航行だった」の証明には、まったくなりません。天候だけが事故の原因ではないはずで、船の状態、操船技術、乗客の人数や安全装備など、検証すべき点は山ほどあるはずです。

「海のせいじゃない」という主張が、なぜか「自分たちのせいでもない」という方向に聞こえてしまう。そこに多くの人が違和感と怒りを覚えているんじゃないでしょうか。


笑いが起きる空気の異様さ

さらに多くの人を驚かせたのは、その場の雰囲気でした。

命を失った若者がいる。遺族がいる。そういう事故の「当事者」として話す場で、会場に笑いが起きるような瞬間があったと複数の参加者が証言しています。

もちろん、緊張をほぐすための苦笑いというものは存在します。すべての笑いが不謹慎だとは言いません。でも、それが「遺族のいない内輪の場」で起きているとしたら、どう感じますか。

高校生の保護者たちは、今もその死と向き合っています。その事実と、この場の空気感のギャップは、あまりにも大きすぎると感じてしまいます。


「謝罪できていない」の構造

会見では、謝罪の申し入れはしているが捜査中で実現できていない、という趣旨の説明もあったようです。

法的なリスクを考えれば、捜査中に公の場で謝罪することが難しいのは理解できます。弁護士にそう言われていることも想像できます。

でも、遺族の側から見れば、その「理由」はほとんど関係ありません。子どもを亡くした親が「なぜ謝りに来ないのか」と思うのは、当然のことです。

法的な正しさと、人としての誠実さは、別の話です。


私たちは何を問うべきか

このケースが難しいのは、運航団体が「辺野古基地建設への抗議」という政治活動を行っていた点にあります。

その活動の意義を支持するかどうかに関係なく、人が死んだ事故への向き合い方は、別次元で問われなければなりません。政治的な文脈が、事故への誠実な対応を曇らせてはいけない。

メディアリテラシーの話をするなら、その視点は運航側の発信にも同じように向けられるべきです。「メディアが歪めている」という主張もまた、一つの「物語」である可能性があるからです。

情報を鵜呑みにしないこと。それは、どの側の発言に対しても、同じように求められる姿勢のはずです。


亡くなった高校生のご冥福を、心よりお祈りします。

上城 孝嗣

日本を愛する人と繋がりたい🇯🇵🌸毎日「気づき」を提供するために発信中! 嘘を教える教育や、メディアに破壊され続けてきた日本人の魂。まずは何事にも好奇心を持ち、世界にも目を向ける事。これまで知らなかった多くの事を学ぶと全てが繋がって真実が見えてきます。 「知らないのは恥ではない、知ろうとしないのが恥である」

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