日本の食卓を彩る、甘く、美しく、高品質な農作物。
そのつやつやとした果実を見て、私たちは「今年も美味しい季節がきたな」と、なんとなく幸せな気持ちになりますよね。
でも、その平和な食卓の裏側で、いま何が起きているか、ご存知でしょうか。
丹精込めて育て、いよいよ収穫という、まさにその前夜。作物が根こそぎ、ごっそりと奪われる。農家の方々がこれを「見えない戦争」と呼ぶのも、決して大げさな話ではないんです。
そこにあるのは、単なる経済的損失だけじゃありません。何ヶ月もかけて積み上げてきた時間と情熱、そして人生そのものが踏みにじられる、言葉にできないほどの憤りと喪失感なんです。
今、日本の農業現場で、いったい何が起きているのか。私たちは今こそ、この現実にしっかり目を向けるべきだと思います。
5,000個の梨が、一夜にして消えた
2026年7月、福岡県うきは市。この地で代々梨を育ててきた農家さんの農園から、収穫をわずか数日後に控えていた「幸水」という品種の梨、約5,000個が忽然と姿を消しました。
70本ある木のうち、実に50本分。1本あたり約100個ですから、被害額はおよそ200万円にのぼるといいます。
犯行は夜間。しかも枝を傷つけず、実だけをきれいに、根こそぎ摘み取っていくという、実に手慣れた手口だったそうです。人感センサーや柵も設置していたのに、まったく効果がなかった。
そして、これが初めてではないんです。同じ農園は前年、2025年にも約6,000個から6,200個もの梨を盗まれ、被害額は約190万円。当時は法人経営で従業員も雇っていたのに、その被害がきっかけで倒産に追い込まれてしまいました。それでも「もう一度だけ」と個人事業主として再起を図った、まさにその矢先の、二度目の悲劇だったんです。
わずか1年余りの間に、合計で1万個を超える梨が奪われた計算になります。2年連続で同じ農園が狙われるというのは、もはや偶発的な犯罪とは言えないのではないでしょうか。
農家さんは「悔しいですね。対策を取りきれなかった自分の責任だろうけれど、もうきつい。作っても作ってもこれでは」と語り、無念の閉園を決断されました。
福岡県警の調べによると、県内での農作物盗難は2020年以降、毎年おおよそ40件前後で推移しているそうです。被害額10万円以上の事件だけでも、2020年から2025年8月までに20件発生していて、そのほとんどがぶどうや梨など、高値で取引される果物に集中しているといいます。
農作物窃盗というのは、そもそも証拠が残りにくく、検挙率も低いとされています。実際、今回もまだ犯人は特定されていません。
丹精込めて育てたものを、汗も涙も、8ヶ月分の時間も、一晩でごっそり持っていかれる。想像するだけで、胸が締め付けられる思いがします。
「守るだけ」で300万円という、理不尽すぎる現実
農業を続けていくためには、まず「守り」を固めなければなりません。
実は私自身の農地でも、160反という広大な土地を柵で囲うために、電柵や防護柵を設置しました。それだけで、かかった費用はなんと300万円以上。
しかも、これはあくまで、イノシシやシカといった害獣から作物を守るための「最低限」の備えに過ぎないんです。
問題はここからです。もし、悪意を持って侵入してくる「人間」からの盗難まで本気で防ごうとすれば、対策費用はさらに跳ね上がります。防犯カメラ、センサーライト、警備体制……倍以上の、途方もない負担になるでしょう。実際にうきは市でも、市内約10か所に防犯カメラを設置するため、約500万円もの予算が組まれる事態になっています。
農家が8ヶ月もの間、汗水垂らして草を取り、土にまみれながら、ようやく手にできるはずだった利益。それが、こうした「守るためのコスト」にどんどん食いつぶされていく。
これって、よく考えるとおかしな話じゃないでしょうか。真面目に働いている人が、自分の作ったものを守るためだけに、これほど莫大なお金と労力を注ぎ込まなければならない。この理不尽な経済的重圧が、いまの日本の農業を、内側からじわじわと蝕んでいるんです。
1房1万円――世界が羨む「技術の結晶」
一方で、日本のフルーツは、いまや世界中から「宝」として称賛されています。
ロンドンの高級百貨店ハロッズでは、日本産のシャインマスカットが1房1万円もの値段で取引されることがあると言われています。真偽のほどは一つひとつ確かめようがありませんが、少なくとも「そう語られるほど評価が高い」ということ自体が、この果実の価値を物語っていますよね。
なぜ、これほどまでに評価されるのか。それは、一粒一粒の形を美しい逆三角形に整え、甘みを極限まで高めるために、農家の方々が気の遠くなるような手間暇をかけているからです。
たとえば、里芋の一種である「ドタレ」。春に植えてから収穫まで、実に8ヶ月もの間、来る日も来る日も雑草との地道な戦いを続け、ようやく土の中から掘り出されます。
「ここにはですね、農家の技術の結晶が、ノウハウの結晶がここにあるわけですよ」
この一言に、すべてが詰まっていると思います。農産物というのは、単なる「食べ物」ではありません。何十年もの経験に裏打ちされた、「技術とノウハウの結晶」そのものなんです。
だからこそ、盗難という行為は、その結晶を盗むだけでなく、農家の魂そのものを侮辱する行為に他ならないのではないでしょうか。
崩れゆく「日本の当たり前」
近年、農業現場を襲う盗難被害は、エスカレートの一途をたどっています。
被害は梨だけにとどまりません。桃、メロン、さくらんぼ、イチゴ……丹精込めて作られた高価値の作物ほど、狙われやすい傾向にあります。私自身の身近でも、金柑や栗が盗まれる被害がありました。
「落ちている栗くらいなら、拾ってもいいだろう」
そう軽く考える人もいるかもしれません。でも、そこは間違いなく農家が管理している私有地です。落ちた実の一粒一粒にも、農家の手間と権利が乗っているんです。
かつての日本には、「人のものは取らない」という、あまりにも当たり前すぎる道徳心がありました。しかし今、その大前提そのものが、静かに、しかし確実に崩れ去ろうとしているように感じます。
過去には、小笠原諸島での赤サンゴの密漁、寺社に伝わる貴重な銅板や仏像の盗難といった事件もありました。これらと、いま起きている農作物盗難は、決して無関係な話ではないと私は思います。日本という国が長らく守ってきた「治安」や「他者への敬意」という土台が、じわじわと侵食されている――その一つの表れなのではないでしょうか。
異なる文化、異なる宗教、異なる価値観を持つ人々が、これまで以上に混在するようになった社会。その中で、私たちが「当たり前」だと信じて疑わなかった日本の治安や国民意識が、いま根底から揺さぶられているように思えてなりません。
高市大臣をはじめとする政治家の方々に、私はあえて問いたいと思います。
このまま無秩序な状況を放置し、十分な議論もないまま移民政策をなし崩し的に進めていって、本当に良いのでしょうか。
日本という国の形、そして「安全」という、お金には換えられない最大の資産。それがいま、静かに失われようとしているのではないか――そう感じているのは、私だけではないはずです。
もちろん、この問題を移民政策だけに単純化してしまうのは危険かもしれません。犯罪の背景には、経済格差や地域社会のつながりの希薄化など、複合的な要因があるという見方もあります。だからこそ、感情的な議論に流されず、事実をベースにした冷静な政策論議が、いま強く求められているのだと思います。
民間まかせにしない、「国家の守り」を
相次ぐ盗難被害を受けて、民間では被害農家を支援するクラウドファンディングが立ち上がるといった動きも見られます。
こうした善意のサポートは、本当に尊いものです。絶望の淵に立たされた農家が、「もう一度だけ、やってみよう」と再び立ち上がるための、大きな原動力になっています。
でも、よく考えてみてください。本来であれば、こうした事態への補償や再発防止策は、民間の善意任せにするのではなく、国が主導して取り組むべき喫緊の課題のはずです。
農家が絶望し、次々と離農という選択をしていけば、日本の食糧基盤そのものが崩壊しかねません。それはもう、一産業の問題ではなく、国家そのものが立ち行かなくなるという話です。
農林水産省や政治家の皆さんには、現場から上がっているこの悲鳴を真摯に受け止めていただき、農家が安心して「営農」に専念できるような、実効性のある強力なサポート体制を、一刻も早く構築していただきたい。心からそう願っています。
これは決して、一産業だけの問題ではありません。日本の食を、そして国民の暮らしを根底から支える、国家の安全保障そのものに関わる重大な事態なんです。
一粒の果実に、私たちが込めるべき敬意
私たちは、食卓に並ぶ一粒の果実の向こう側に、農家が費やした8ヶ月、あるいはそれ以上の歳月と苦闘があることを、決して忘れてはいけないと思います。
天候不順、害獣、そして卑劣な盗難。数々の困難と戦いながら、それでも日本の食と文化を支え続けてくれている人たちがいます。
いま、被害に苦しんでいる農家の皆さん。どうか、負けないでください。皆さんが丹精込めて作り上げるものは、間違いなく、日本が世界に誇る「宝」です。同じ農の道を歩む者として、私は皆さんの誇りを、心の底から支持しています。
そして、私たち消費者の側にも、意識を変える必要があるのではないでしょうか。農作物を「安ければいい商品」として消費するのではなく、守るべき「日本の結晶」として、きちんと敬意を払う。そんな当たり前の感覚を、もう一度、社会全体で取り戻すべきときなのだと思います。
日本の食卓と文化を、これからも支え続けてくれる農家の方々を、私たち社会全体で、いったいどう守り抜いていくのか。
その答えを出すのは、政治家でも、農家でもなく、一人ひとりの私たちの「気付き」なのかもしれません。














