1969年4月28日。東京・銀座の街が、まるで戦場のような様相を呈しました。
「沖縄デー」と呼ばれたこの日は、1952年に沖縄がアメリカの施政権下に置かれた「屈辱の日」から17年目の節目でした。当時の日本は、ベトナム戦争への反対運動や学生運動が最高潮に達していた時代です。大学のキャンパスには無数のバリケードが築かれ、ヘルメットに角材を手にした学生たちの姿は、日常の風景にすらなっていました。
沖縄からの300人
この日、沖縄からは300人を超える代表団が海を渡って本土へやってきました。長い船旅の疲れなど微塵も見せず、彼らは「沖縄の即時・無条件・全面返還」を声高に訴え続けます。当時の沖縄はまだアメリカの統治下にあり、本土の日本人とは異なるパスポートが必要で、米軍基地が島の広大な土地を占拠している状況でした。「同じ日本人なのに、なぜ沖縄だけが」という怒りは、沖縄の人々だけでなく、本土の学生たちの心にも火をつけていました。
代々木公園では、沖縄の祖国復帰を願う中央集会が整然と開かれていました。「アメリカは日本から出ていけ」「沖縄を今すぐ返せ」という声が公園に響き渡ります。この時点ではまだ、集会は平和的な雰囲気を保っていました。
霞が関を固める「万全の備え」
一方、政府側も事前に相当な緊張感を持って構えていました。学生たちの攻撃目標とされていた国会議事堂周辺や防衛庁には、物々しい警備体制が敷かれ、官庁街・霞が関一帯は完全に封鎖に近い状態です。これだけの備えがあれば大丈夫——当局はそう考えていたかもしれません。
しかし学生たちは、その「正面突破」を最初から狙っていませんでした。
銀座に火が灯る夜
夜が深まるにつれ、学生たちの動きは一気に激しさを増します。霞が関の厳戒警備の裏をかくように、彼らはゲリラ戦術を選びました。向かった先は、意外にも高級ショッピング街として知られる銀座通りです。
そこで起きたことは、衝撃的な光景でした。破壊と放火が相次ぎ、警官は袋叩きにあい、街角の交番が次々と襲われます。銀座の洗練されたショーウィンドウと、火炎瓶の炎——そのあまりにも対照的な景色は、当時のニュース映像でも鮮烈に記録されています。
この暴走は実に4時間以上にわたって続き、最終的に逮捕された学生の数は965人にのぼりました。一晩で965人という数字は、当時の日本の学生運動史の中でも特筆すべき規模です。
あの学生たちは今どこに
映像を見ながら、ふと考えてしまいます。逮捕されたあの965人は、今どこで何をしているのでしょうか。
1969年当時に20歳前後だったとすれば、現在は70代後半から80代を迎えているはずです。その中には、その後社会に戻り、会社員として、教師として、あるいは政治家として生きた人たちもいることでしょう。「あの頃は本気だった」と語る人もいれば、封印したように口を閉ざす人もいるかもしれません。
沖縄が本土に返還されたのは、この騒動から3年後の1972年のことです。学生たちが命がけで叫んだ「沖縄を返せ」という声は、形の上では実現しました。ただ、米軍基地の問題は半世紀以上が経った今もなお続いており、沖縄の人々が抱える重荷は完全には消えていません。
時代の熱狂の中で燃え上がり、そして静かに消えていった若者たちの情熱——その記録が今も映像として残っているという事実は、歴史を振り返るうえで貴重な遺産だと思います。あの夜の銀座を走り回った学生たちの横顔が、白黒の映像の中に今も確かに存在しているのです。








