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まずは「知る事」から始まる

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1994年10月。西尾幹二、金美齢、大島渚――今の目で見ると、なかなかどうして豪華というか、濃い顔ぶれです。

この時代のテレビ討論といえば、とにかく「熱量」が違いました。出演者たちが本当に自分の言葉で喋っていたんです。原稿を読むでもなく、局や番組の空気を読んで当たり障りのないことを言うでもなく、時に怒鳴り合い、時に話を遮り合いながら、それぞれの持論をぶつけていました。

大島渚監督といえば、まさにその象徴みたいな人でした。「人の話を聞かない人」として有名で(笑)、自分が言いたいことを言い切るまで誰にも止められない。でも不思議と、そのエネルギーが画面に宿っていて、見ている側も引き込まれてしまうんです。今振り返ると、あの「聞かなさ」すらも、本物の確信から来ていたのかもしれません。

一方、西尾幹二はドイツ文学者・評論家として保守の論陣を張り、金美齢は台湾出身の日本語論客として独自の立場から日本社会を斬る。三者三様、どこかのシンクタンクから借りてきたような「整理された意見」ではなく、それぞれの人生や思想の重みがにじみ出ていました。

そしてこの頃すでに、難民・移民の問題がテーマとして語られていたというのが、今となっては非常に興味深いです。

1994年といえば、日本はまだバブル崩壊直後の傷を抱えながらも、製造業を中心とした外国人労働者の受け入れが少しずつ現実的な問題として浮上し始めた時期でした。世界に目を向ければ、ルワンダの大虐殺が起きた年でもあります。難民という概念が、遠い国の話ではなく、グローバルな構造問題として認識されつつあった転換点だったとも言えます。

あれから30年が経ち、今や日本でも難民認定制度の改正や、外国人労働者・技能実習制度の見直しが社会的な論点として定着しています。むしろ現在のほうが問題は深刻化・複雑化しているにもかかわらず、テレビで繰り広げられる議論の多くは、当時より薄くなっているように感じるのは気のせいでしょうか。

メディアの御用コメンテーターが無難な言葉で時間を埋め、スタジオ全員が同じ方向を向いて頷く。「論争」のふりをした「合唱」というべき光景が増えた気がします。

だからこそ、1994年のあの熱量が、かえって輝いて見えるんです。言葉が軽くなった時代だからこそ、自分の言葉を持った人間がぶつかり合う場面の貴重さが際立ちます。

大島渚監督が今生きていたら、現代のワイドショーを見てどう叫ぶでしょうか――きっと誰の話も聞かずに、ひとしきり怒鳴り続けるんじゃないかと思います。そしてその言葉は、今のコメンテーター100人分より、ずっと重かったでしょう。

上城 孝嗣

日本を愛する人と繋がりたい🇯🇵🌸毎日「気づき」を提供するために発信中! 嘘を教える教育や、メディアに破壊され続けてきた日本人の魂。まずは何事にも好奇心を持ち、世界にも目を向ける事。これまで知らなかった多くの事を学ぶと全てが繋がって真実が見えてきます。 「知らないのは恥ではない、知ろうとしないのが恥である」

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