沈黙は美徳――でも、それが罠だった
日本人は「言わなくてもわかる」を美徳としてきた。
目を見れば伝わる。背中で語る。多くを語らずとも、誠実に行動し続ければ、相手はきっとわかってくれる――そういう信念が、文化の深いところに根を張っている。
でも、冷静に考えてみてほしい。
その「きっとわかってくれる」という前提、国際社会では一度でも機能したことがあっただろうか。
戦後80年、日本は誠実に謝り続けた。ODAで数十兆円規模の支援をばらまいた。勤勉に働き、高品質な製品を世界に届けた。条約を守り、約束を果たし、ルールに従い続けた。
それでも「日本は反省が足りない」と言われ、支援した国々からは感謝より要求が増え、懸命に育てた産業は「不公正だ」のひと言でルールごと変えられた。
これはもう、能力の問題でも努力の問題でもない。ゲームのルール自体が、最初から別のものだったのだ。
「言葉」への向き合い方が、根本から違う
日本の言語文化では、言葉は「真実を伝えるもの」だ。だから余計なことを言わない。嘘をつくのは恥だ。言ったことには責任が伴う。
欧米の弁論文化では、言葉は「相手を動かすためのツール」だ。古代ギリシャの時代から、レトリック(弁論術)は最高の知的技芸とされてきた。事実を語ることと、人を説得することは、別のスキルとして体系化されてきた歴史がある。
どちらが正しいか、ではない。
ただ、外交も経済交渉も情報戦も、すべて「言葉のゲーム」として設計されている現代世界では、この出発点の違いが、埋めがたいほど大きなハンデになっている。
「フェアトレード」「民主主義」「人権」「自由」――これらの美しい言葉が、実際にはどれほど都合よく使われてきたか。意図的に目を向ければ、歴史はその事例で溢れている。
知らないことが、いちばん危ない
「そんな話、陰謀論じゃないの?」
そう思う気持ちはわかる。でも考えてみてほしい。陰謀論と呼んで思考を止めることも、また誰かにとって都合のいい反応なのかもしれない。
疑うことは、不誠実なことではない。むしろ、騙されないための、誠実さの別の形だ。
日本人が持つ「潔さ」「正直さ」「誇り」は、本物の強さだ。それは絶対に手放してはいけない。ただ、その美しい価値観を守るためにこそ、世界が「別のルール」で動いていることを、冷静に知っておく必要がある。
具体的な歴史の場面を掘り下げながら、「言葉の支配」がどのように機能してきたのかを見ていきましょう。知れば知るほど、世界の見え方が変わってくるはず。
「なんかずっと引っかかってたことが言語化された」そう感じたら、「まほろば塾」で続きを一緒に読んでいきましょう。







